Masakazu Yoshida

写真と社交の折り合い

2015-05-13 10:00

電車に乗っているとき、他のお客さんが何をしているかといえば、十のうち八か九までスマートフォンを触っている。その多くはゲームかSNSで、最近では動画を見ている人も多い。紙の本を読んでいる人は少数派だ。私はといえば、じっとオーディオブックを聞いている。

スマートフォンが生活の中に浸潤してきているので、電車の中でデートと覚しきカップルがお互いにそっぽを向いてスマートフォンをいじっている風景にも別に驚かなくなった。個人的には、昔のうたにもあるように「会わなきゃできないこと」をすればいいのにと思うが。

なにが言いたいのかというと、写真にもスマートフォンと同じような中毒性があるということだ。両者の違いは、写真の人は少数派で、大多数の人は写真を撮る行為を理解できないことだ。たとえ同じようなカメラを持っていたとしても。

写真が面白くなってくると、特に街角スナップ派の場合、どこへ行くにもカメラを持っていきたくなる。街を歩くときは「写真の目」になっていて、目に入ってくるものをどのように自分の写真として切り取るかを常に頭の中でシミュレーションしている。普通に考えて、美しいとか珍しいと考えるようなものはつまらなく感じるので、名所旧跡を避け、いきおい細い路地やガラの悪い街区の方へ足を向けたくなる。何かひらめくものがあると、いきなり足を止めてシャッターを切る。本当は、構図とか状況を見て、そこで「何か」が起るのをじっと待ちたいのだが、同行者があるとそこまではできない。

このような行動をとっていると、写真に興味がない同行者があると、迷惑をかけているなあという引け目を感じる。そうすると自分の写真が中途半端になり不満が溜る。

写真を撮る仲間があれば問題の半分ぐらいは解決するのだが、なかなかそうはいかない。